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探訪 三木合戦
       
 
  戦国時代、羽柴秀吉の兵糧攻めで有名な、三木城の別所長治との約二年にわたる攻防を、福本錦嶺氏のご好意により、その著書「探訪 三木合戦」より抜粋してお届けします。


歴史的背景
別所氏の対応
三木合戦の概略
 
    「探訪三木合戦」
福本錦嶺氏 著
三木市観光協会刊
 
 
   歴史的背景  
 
 
   室町時代末期、天下の形勢は「天下布武」を掲げる織田信長を中心として動いた。尾張を制圧した織田信長の勢力は近畿に及び足利将軍の権威は地に落ちた。信長は安土を本拠に軍団を各方面に派遣したが、山陽道には羽柴秀吉に命じて中国の毛利氏を攻略させようとした。その中間に位置する播磨の諸豪族はそのはざ間に立たされることとなった。そして、天正六年(1578)から天正七年にかけて播磨の平野は大修羅場が展開されることとなる。

 
   始め信長は播磨の諸豪族を協力者と見ていた。信長の天下統一の大業である中国平定の命令を受けた羽柴秀吉は山陽道の総大将となって手勢を率いて播磨の地に入り、加古川城の糟屋氏の屋形に播磨の豪族たちを招集して中国毛利攻めの協力を頼むことになったが、中国攻めの先鋒と期待していた東播磨八郡の将別所氏の不快を買いこの協議は実らなかった。  
 
   別所氏の対応  
 
 
   この加古川城の糟屋屋形の会見の後、別所氏は毛利氏につくことに決し、城主の別所長治は近隣の豪族や東播磨の諸城に檄を飛ばしてその連絡を密にし、三木城の拡大を図り防備を厳重にして篭城して戦うことにした。このとき、東播磨の小豪族たちは一族を引き連れ三木城に篭もり、その兵力は七千五百騎におよんだ。
三木城は、東は大塚の構えから、西は高木の境まで延々四キロにわたり山岳と谷と小川を利用した一大城郭を形成し、これを支援する神吉城、志方城、高砂城、野口城、端谷城、衣笠城、渡瀬城、淡河城などの支城は、城の防備を厳重にして三木本城との連携を図り東播磨の地の結束を固めた。
 
  また、一方、別所氏は細川の庄に城館を設ける冷泉為純を不意をついて攻め、為純は討死、長男の為勝は救援にきた小田城主依藤山城守とともに嬉野まで逃れたがともに自害した。因みに、この冷泉為純の三男は後の日本儒学の基を開いた藤原惺窩であり、その弟子林羅山を推挙して江戸幕府文教に影響を残した。  
 
   三木合戦の概略  
 
 
   天正六年四月の始め、羽柴秀吉は軍を率いて三木城に迫り大村の地に野営の陣を張った。日没よりひそかに勢揃いした別所方は大村坂の秀吉軍の駐屯の陣に夜襲を掛けた。第一陣は援軍の志方城主櫛橋伊則、二陣は野口城主の長井四郎左衛門、三陣は神吉城主の神吉頼定。高砂城主の梶原景行はわずか六十余人を従えて軍奉行となり進退の軍令は合戦になれた景行があたり、他の城主は多くの手兵を引きつれて松明もともさず、暗闇の中を静かに秀吉陣指して進撃したのである。

 
   昼の疲れで寝静まった秀吉方の陣営に一度にどっと切っていり、かねて用意の松明に火をつけて振り立てれば、三木城から一千余人の精兵が松明や提灯を振りかざし美嚢川をわたって殺到した。前後より挟み撃ちに攻められた秀吉軍は別所勢の夜襲に大混乱に陥り多数の死傷者をだし、加古川方面に逃走し書写山に集結した。この緒戦は別所方の大勝利に終わり、勝利を得た諸将たちはそれぞれの居城に凱旋した。

 
   別所方の奇襲に大敗した秀吉は東播磨の軍兵の意外の強剛ぶりに驚き、書写山で今後の方策を練り、織田信長に援軍を要請するとともに三木城を直接臨める平井山に本陣を進めた。やがて信長の援軍を加えて三万人の大軍に膨れ上がった秀吉軍は平井山の本陣で三木城攻囲策戦を練った。秀吉は竹中半兵衛の進言を用い、三木城を包囲するとともに周辺の支城をまず順次攻略し、最後に三木城を攻略するという、いわゆる兵糧攻めの策をとった。

 
   秀吉軍は三木城の糧道を断つため三木城の包囲を固めるとともに、まず、神吉城や志方城を攻略した。次いで毛利方の援軍が魚住の浜や高砂城に食料を陸揚げし間道沿いに三木城に運んでいるのを探知し、高砂城を攻めたが毛利方との挟撃にあい惨敗したがこのとき相生の松が焼けたと伝えられている。大軍をもって二度目に高砂城を攻め城主梶原氏は城を捨てた。また、秀吉軍は毛利方が兵庫の港より花隈城に武器や兵糧をいれ、丹生山の峰伝いに淡河城を経由して山道を利用して三木城へ運ぶという糧道も断ち、拠点の淡河城攻めも淡河弾正定範の奇計に翻弄されたがこれを攻略した。定範は城を捨て一族郎党を引き連れ三木城に篭城した。  
  また、脇川の教海寺の信徒は竹筒に米を入れ川を流すという方法で城に米を送ろうとしたが露見し、秀吉は教海寺を焼き一門を殺した。疑いを持った秀吉は三木城周辺の神社仏閣を焼き払うなどして三木城への食糧輸送の道を次々と遮断して包囲網を狭めていったが、その間、軍師の竹中半兵衛は陣中で病が悪化して陣没し、平井山に墓所がある。

 
   天正七年9月の初め、別所氏は毛利軍と図り谷大膳の守る平田の砦を突破して武器や食料を三木城へ運び込む計画を立てた。毛利方は紀州の雑賀党の門徒八千余人に武器や兵糧を持たせ、精兵数百騎がこれを護衛して高砂の浜から加古川を渡り、平田の砦近くまで進出してきた。三木城からは七千人余の人夫を動員して武器や兵糧を城中に運び入れる準備を整え、別所吉親は参千騎を従えて、平田の砦の守将、谷大膳の陣を攻め立てた。手勢の少ない平田の砦は惨敗して谷大膳は討ち死にしたが、秀吉軍は新手の兵を差し向け、大村坂で大激戦となった。  
  この大村坂では別所方は大敗し、名のある将格七十余人、士卒八百余人が討ち死にし負傷者は数知れずという。このとき淡河弾正定範も一族郎党と奮戦し、やがて加佐の地まで落ちて自殺して果てたがその地は八幡森公園となっている。

 
   この戦いで毛利方から輸送してきた兵糧はわずかばかりが三木城中に入ったが大半は秀吉軍に分捕られ、その後は三木城中の食料は欠乏し飢餓に見舞われることになった。秀吉は徐々に包囲の輪を狭め、三木城に篭る別所方は勇敢に戦ったが、糧道の閉鎖と死傷者による消耗はその戦力を低下させ、だんだん追い込まれていき、勝算のないことを知った城主の長治は意を決し、城主一族の自害と引替えに家臣や領民の助命を条件に書状を秀吉に送った。秀吉はこれを承諾して酒肴を城中に送りその決意と義気を賞賛し、本陣を本要寺に移しこれを居館とした。

 
   三木城中では、残る将卒や人夫たちを広場に集めて別れの宴を張り、城主は情を尽くして別れの言葉を述べ、城主長治二十三歳、一族妻子とともに自害して果てたが、時は天正8年正月17日である。長治の辞世の歌は次のとおりである。「 今はただ 恨みもあらじ諸人の いのちに代はるわが身と思へば 」秀吉の数多い合戦の中で、これ程長く二十二か月もかけて苦戦して開城させた合戦はこの三木城だけである。この三木城攻略の戦術は後の「鳥取城攻め」や「高松城水攻め」などによく生かされているようである。

  秀吉は三木城明け渡しにより城中に入り、城内に残る将卒を助命して落ち延びさせるとともに四散した領民を帰順させるため制札を立て徳政を行った。
 
 

 
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