清酒 葵鶴 醸造元
稲見酒造株式会社

兵庫県三木市芝町2番29号
電話:0794-82-0065
FAX:0794-82-2215
 
 
 
 
 
   
 
  三木へおいでよ
湯の山街道
探訪 三木合戦
三木の観光案内
 
   
   
   
   

 
三木のまち 探検のおすすめ
     
 
   古い歴史をもっている農村部と戦国時代の城下町で江戸時代からの鍛冶の町でもある旧三木町。小高い丘陵に挟まれた盆地には美嚢川が流れています。
  日ごろ見慣れている素朴な景色ですが、市外からの来訪者から見れば目新しく、素晴らしい歴史と情景を持つ独特の個性を備えた美しい町だと言えましょう。
  三木のまちを少人数で静かに心ゆくまで鑑賞し、自分なりの面白さを発見してみませんか。探検の楽しみを存分に味わえる旅になること請け合いです。
  コタニマサオさんの案内で楽しんでください。
謹告:コタニマサオ氏は平成15年11月急逝されました。謹んで哀悼の意を表しご冥福をお祈り
申し上げます。
 
              画と文 コタニ マサオ 氏        
(日本漫画家協会会員)        
三木市観光協会 刊 
  「街道ぶらり散歩」  (第 1 回連載)  
  「口吉川の見どころ」  (後日逐次連載)  
  「細川の見どころ」  (後日逐次連載)  
  「志染の見どころ」  (後日逐次連載)  
  「久留美の見どころ」  (後日逐次連載)  
  「三木の見どころ」  (後日逐次連載)  
  「別所の見どころ」  (後日逐次連載)  
 
 
 
  「街道ぶらり散歩」  (第 1 回連載)
 
 
 街道ぶらり散歩  
 
 
 
   三木の旧市街地はその昔、美嚢川の南側の街道筋に沿って開けました。
  町の中央部にある上の丸の三木城が羽柴秀吉によって滅ぼされたあと、兵火に焼かれた町が復興し、それをきっかけに江戸中期から鍛冶の町として栄えたのです。
  城跡の小高い丘が、盆地の中央を東西に流れる美嚢川に接していたため、このあたり滑原町は、街道が一本通るだけで、それより東を上五カ町(上町、新町、明石町、中町、下町)と呼びました。まん中がしぼられた、まるで、秀吉の旗印であるひょうたんのような地形です。

 
   街道は、志染を経て有馬に至る平山−芝町−大塚の湯の山街道と呼ばれる道、吉川筋を通って加東郡東条に至る平山−東条町の道、明石方面へ抜ける上町−明石町を通る明石道、加古川から姫路に至る上町−中町、下町の道、この4本が古い街道で、上町の一部を除いて、新しい県道はすべて新しく作られたため、街道はほとんどそのままの広さで残っています。
  最近は新しく家が立替えられたり、駐車場になったりで、町並みに凹凸が目立ちはじめましたが、それでも、うだつや虫篭窓格子の家、なまこ壁の蔵などがまだまだ残っていて、カメラ片手のブラリ散歩は楽しめます。

 
   三木が城下町の名残をとどめるだけに、大塚、東条町、下町の3ヵ所で道路がカギ型に曲がっていたり、家並みが鋸の歯状に並んでいるのを見つけることもできます。石の道標を発見するのも楽しいでしょう。
  碁盤の目のように道路が整備された京都や、江戸時代の城下町とは違い、川の流れと、山の形に従って発達してきた道路網ですから、車社会になって新しく作られた広い道路との接点など、ほとんどが四辻でなく三叉路、五差路になっています。

  街道を歩いてみて不思議なのは、全国屈指の金物の町でありながら、金物店や鍛冶職場が産地としては見当たらなさ過ぎることです。
 
   金物問屋は卸し専門ですから、大きな看板を上げたり、店先に商品を並べる必要がないわけですし、表通りの加治屋さんは、格子のはまったしもた屋風の家であり、裏の方に職場があるからです。
  旧街道には、古い木造家屋が残っていて、中二階で虫籠窓のある家や、二階建てで格子のある立派な構えの二階建ての家がありますが、二階建ての家屋は明治以降のものと見て差し支えありません。

 
   江戸時代は大名たちの行列が有馬温泉に向かったので、上から見下ろさないよう物置代わりの中二階にしていたからです。
  路地裏に入ってみると、鉄粉のサビで赤茶けた瓦屋根の職場が目に入ります。廃業と、その逆に発展して周辺部へ移転したところも多く、槌の音、研磨の音がほとんど聞こえなくなりましたが、生活の場として手入れされた四季とりどりの花が咲き続け、殺風景な車の道と違って、昔に帰れるタイムスリップした楽しみがあり、ホッとさせてくれ、安らぎと温かみを感じさせてくれます。

 
    三木の町は、道が複雑でわかりにくいとの声がよく聞かれますが、路地を歩いてどのあたりに飛び出せるかなど、探検ならではの楽しみを味わうには、面白さが倍増するもってこいの町なのです。(注:町名は町内会で使用している旧町名をつかっています。)  
 
 
 湯の山街道  
 
 
 
   湯の山街道の散歩は、神戸電鉄や神姫バスを利用される方は高台の恵比寿駅を起点にされると坂道を下ることになるので楽に歩けます。これは有馬温泉へ向かうコースとは逆ですが、えべっさんの石像、恵比寿駅裏にあった宗賢池の埋め立て整備で造られたロータリーに因んで建てられた菅原宗賢の顕彰碑、瓦屋根、なまこ壁など和風に造られた駅百選に選ばれた駅舎などをスタート地点に、旧街道の道標のあるところまで2〜3分歩きます。この辺りから東を望むと、明峰丹生山がくっきりと見えます。有馬温泉に向かう西国大名の行列や、旅人が往来して賑わった湯の山街道は、延享3年(1746)の絵図を見ても家並みが詰まっています。

 
   狭い街道に向かいあった家は、かなり新しく立て直されてはいますが、まだ町全体が古い雰囲気を残しています。
  出発点すぐそばに、まず戎神社の大鳥居、右へ参道が伸びて正面に銅屋根の社殿が見えます。毎年1月9日、10日、11日に大塚の人たちが当番で世話をする「エベッサン」の祭礼は、街道筋に屋台店が軒を連ね、参拝客で賑わいます。
  この道を歩いていくと、大正時代の銀行であった建物もあります。アンモナイトの展示を中心としたギャラリー「湯の山みち」もあります。
 
   鎌倉時代の医師菅原宗賢もこの辺りに住んでいて、旅先の石の宝殿(高砂市)で知り合った旅の僧を家に連れ帰り、大いに語り合ったそうですが、この僧が最明寺入道北条時頼であり、お礼に三木を免租地にしてくれたという伝説もあります。

  半農半工で、そろばん製造から鑿の産地へと移った大塚、高台だけに池も多かったのですが、かっては街道筋にも池がありました。池で馬を洗ったり、農道具を洗ったりしたのでしょう。街道は宮脇敬夫さん宅に突き当たり直角に左へ曲がって再び右へ曲がります。城下町に多い鍵型の辻なのです。少し歩いて左手に浄土宗極楽寺の参道です。
 
   門前に薬師堂があります。ここから街道が急な坂を下り芝町に入りますから西の境界です。

  東端に戎神社、西端に極楽寺と配しているのが古い大塚町です。坂上の薬師堂は石垣の上に立っていて、まるで城の角櫓です。この薬師堂は、昔泥棒が入って本尊の仏像を盗んで逃げました。別所町の石野辺りまで逃げたところで腹に激痛を起こし、「天罰テキメン」と反省、遠い道のりを引返し、お堂に安置したらケロリと痛みが取れました。治ってみたら、また欲しくなって盗み出し、同じところまできたら、また腹が痛み出し、再び引返してお詫びをしたという言い伝えがあります。
 
   また道をはさんで、大塚の日蓮信者が建立した宝塔があります。  
 
 
 芝町から平山へ  
 
 
 
   短いけれど、かなり急な坂道は、もう芝町です。屋敷や蔵などもあり、山田錦心白酒「葵鶴・酒壺(みき)」をつくる稲見酒造があります。表の店舗は古い老舗の建物で堂々とした構えです。斜め向かい、県道加古川−三田線と交差する角に芝町公民館と秋祭りの屋台庫が建っています。大正5年に建てられた芝町公会堂が阪神大震災で傷みが激しくなったため惜しまれながら取り壊したあと、屋台庫を白壁と杉板貼りの古い雰囲気を保ちながら公民館と場所を入れ替えて新築しています。県道側からもよく見え、歴史街道に指定された湯の山街道の芝町入り口にふさわしい景観です。

 
   この、県道を横切ると平山町、左角の「福の太」の醸造元の旧家は古い建物を上手に生かしながら、和食堂に変身させて利用者も多く、この辺りに活気を呼び戻しています。街道側の表口を食堂の裏側にして、そのまま保存しているのも嬉しいやり方です。
  その少し下、右側に本長寺があり、三木の義民の1人、大西与三右衛門の菩提寺として12月8日のふいごまつりに「冬の義民祭」を催しています。

 
   平山町は、三木の商店街の原点といわれ、老舗も多くて賑わいました。この湯の山街道と東条町街道の合流点でもあり、美嚢川を舟でのぼってきた塩などの荷物が陸揚げされる場所でもあったからで、「旦那衆」と呼ばれる老舗の商店主や番頭さんの住む場所でもあったわけです。そのひとつ老舗の呉服店だった「やまぶん」が民芸品などを楽しめる店舗に衣替え、散策の途中で立ち寄れる雰囲気を持っています。上津橋南岸のところで、下滑原(下ナメラ)へと入るのですが、右へコースを変えて先に東条町へ入ることにしましょう。  
 
 
 東条町の旧街道  
 
 
 
   細川、吉川から加東郡の東条町へと通じる東条町の旧街道は、まだまだ古い家が残っています。「やまぶん」の斜め向かいに黒壁の家があり、これが吉川街道東条町の入り口です。まだ、美嚢川に舟が通っていた頃、上津橋下まで高砂から塩などが運ばれてきました。塩などを商っていたこの店は「塩角」と呼ばれていました。

  吉川街道は、細川、口吉川を経て加東郡東条町、篠山などを通って京都に通じる大切な道、弘法大師、羽柴秀吉、西郷隆盛など歴史上の人物も利用したようです。真宗大谷派浄徳寺は小さいながらも長屋門になっていて、かつて右側を印刷所に貸していたので、印刷と書いたガラス戸がそのままになっています。
 
   立派な構えの古い邸宅、かつて店であった家などが仲良く軒を並べていますが、その一つ梶原邸は伊藤博文も逗留したことがあるそうで鍵型の道路になっている突き当りの右側、曹洞宗常自我楽寺があって、この正面から川原へ下りる細道があります。昔は船着場で、その後は共同洗濯場であったところです。この船着場には、近郷の野菜などが集荷されていたようで、牛車でつぎつぎ運ばれてきますので牛糞町といわれていました。常楽寺横でカギ型に曲がって一本道が続きますが、もともとは真っ直ぐ続くせまい路地が旧街道だったのです。

 
   その後、東条町には牛市場ができて、競り市が定期的に行われましたから、牛糞町のカゲ口は50年ほど前まで続くのです。
  カフェや飲食店もあったし、いろんな店がありました。農民や牛の仲買人たちで大いに賑わった町も、いまはひっそりとしていますが、製菓店がいまも二軒、菓子づくりに励んでいますし、街道の名残をとどめています。町はずれの牛市場も今は子供たちの公園になっています。旧街道は岩宮町の新しい交差点に吸い込まれるように終わっています。

 
   ここから先の長久橋までの道路は、そのまま新しい県道からの続きになっているのです。かつて乗合バスも往来した東条町の街道は、その役目を終え、町民たちの道として古い町並みの中でひっそりと息をひそめているかのようですが、路地も走っていて散策するには、興味のある通りです。
  交差点から左に曲がり、美嚢川の久留美大橋にまで足を伸ばすと、大湯と呼ばれる井堰があります。岩の間をしぶきを上げて川が流れる景観を楽しめるでしょう。この橋を渡った右側に「弁慶の足跡」があります。
                      
 
 
 
 下滑原から上町へ  
 
 
 
   平山町と東条町の二つの街道の合流点から西へ足を伸ばしましょう。
  この橋、上津橋の下は岩盤で魔の渕とも呼ばれる釜ケ渕がありました。溺死する者も多く、昭和のはじめに「ふかい きけん 入るな」と彫られた石柱の中に納められた延命地蔵が橋の下に建てられましたが、昭和20年の水害で流されてしまいました。ところが、昭和58年に下流の城山橋下の河川改修をしたところ、川底に埋まった石柱が発見されました。お地蔵さんはありませんでしたが、有志の浄財で上津橋北詰堤防上に石柱が建てられ、新しいお地蔵さんが納められています。

 
   この小さな橋の下を流れる二位の谷川は、二位の谷池と福田池から水が流れているのですが、昭和7年に池が決壊して大氾濫、この辺り一帯の家を押し流し死者33名を数える大水害となりました。
  この辺は、西の滑原町(ナメラ)に対して下滑原と呼ばれますが、普通なら東が上滑原と呼ばれるべきなのに、土地が低くなっているからでしょうか、あるいは、当時の町役場を中心に滑原より遠かったからでしょうか。

  三田線県道を横切って、神戸電鉄のガード下をくぐるとナメラ商店街です。滑原の町名は、このあたりの川底が滑らかな岩盤であることから名づけられたものです。
 
   左手の石段を上がると城址で上の丸公園があります。石段の上から、神戸電鉄の鉄橋を見下ろすと、線路が川の上で大きくカーブしているのがわかります。鉄橋がこのように曲がっているのは全国でも珍しいものです。
  上の丸公園を左上に見て、ナメラ商店街を西に向かいます。ここは、昭和30年ごろまでは買物客とと通行人で賑わいましたというのも、上の地区と下の地区を結ぶ唯一の幹線道路だったからで、乗合バスも往来しました。

 
   スーパーの出現、新しい道路の開通、車社会の到来、三木高校の加佐代台への移転などが重なり、かつての賑わいを失いましたが、歩いてみると、味わいのある通りであると思います。この北側県道との間に路地がありますので探検を楽しめるでしょう。
  ナメラ商店街は旧街道としての復活の夢をかけ、上町の姫路街道にに続いてカラー舗装が行われました。
  これまで舗装といえば、上にアスファルトを積み重ねて来ましたので中央が盛り上がる蒲鉾型、雨が降ると店内に流れ込むという苦情もありましたがどうやら悩みは解消したようです。

 
   ナメラ商店街を通り抜け、新町のトリス美容院のところで左へ行くと、大宮八幡宮の参道下への裏通りがあります。この一本道の中には、、もとカフェの建物を使っている洋服店や古い天理教会などもあって、突き当たると、もと造り酒屋さんの堂々とした門構えの別荘など思わぬ見ものが発見できます。
  トリス喫茶店のところで左に曲がらず、そのまま消防署の横へ出ると、広い道に出ますが、消防署のところが三木町役場があった所で、今もそのままの姿を残し、今回、三木市が保存のため買収した玉置邸などは、古きよき時代を偲ばせます。

 
   太平洋戦争の終わる直前に強制建物疎開があり、その後町の中心道路となりましたが、もともとはナメラ商店街から続く上町の旧街道であったわけです。JAみのりの向かい側、立石堂薬局の白いうろこ壁の建物の階段下、道標が立っています。立石堂の名の由来で、「右ひめじ道、左あかし道」となっています。
  JA会館の右端、細い通りの上に「明盛商店街」のアーチが建っていますが、この通りが明石への街道です。一方の右へ折れて坂を下りる姫路への街道を上町、中町、丸一町、下町へと歩くことにします。          (以下順次連載)
 
 

 
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